言葉を繋ぐ事を自分に許せませんが、もういいでしょう。変わりがありません
人間にはものを察する自我が、心があるのです。どんな人にだってある。
それなのに、伝える以前と以後とで何も変わりありません。ここに人間はいないと思いました。
でもそれは私の高慢やエゴで人間というのは元々こういう生き物だったのでしょうか。それなら私は余計に人間を辞めたくなります。
人間のこういう所を、私は恐れ憎んできました。
それでも、人間が好きだと、苦しみました。
今回の家庭問題の一連の対応で決定的に人間が分からなくなりました。家族って友人ってなんだったんでしょう。
ネットに逃げたことを後悔しました。こうなってはならないという思いを手に握っていたはずがいつの間にか緩んで放していました。ネットにあるのは現実に生きた人間の体系。ネット上の情報だけをかいつまんで生きている気になるのは大間違いです。
つまりはすべてその先に、生きいている人間の意識が、行動があるということ。
まさか現実のコミュニケーションにこの齟齬が存在するとは、(しかも身近に)思いませんでした。そして直面して、こうも気がつかないものかと絶望しました
気が狂っていくのが自覚できてとても怖かった。世に出れないと思うと余計どうしていいか分からなかった
決して他へ知らせるべきでないことは分かっていました。分かっていながら、事が過ぎた今文字を綴っています。キャパシティを超過した自己矛盾が続いて疲弊していても、やはり書くべきでないと思う。でも負い目を感じながらも吐かずには
いつまで吐けば許せるのか。私は許せないものをどうしたらいい?
私こそが世間知らずで人間知らずで、間違った認識をこの世の真実だと思い込んでいたのでしょうか。
絶望を知って歪んだ思いを抱えたまま今も生きています
あるきっかけからすべてを憎いとさえ思ってしまった、こんな思いを抱えたまま生きていくのは辛すぎます
でも一度、命を絶つ覚悟をしてから、毎日何をするにも少し気が晴れています
おかしな話です。全くおかしい
ただ人より生きる覚悟をして生きてきただけなのに、どうしてこうなるんでしょうね。
今いる世界のすべてと折り合いがつきません。
そして感じるのは、ただただ己は場違いだという恥、焦燥、相容れない孤独、と
本当に嘆きたいのは何を見ても以前の観点には戻れないということ
私はいつだってただの作りつけの棚を見てどこかしらに感心していたのです
今は棚を見ても何も感じません。見ようとできない。見えない。そこにないのと同じです。
存在しないんです。私から相対的な世界が感じられなくなってしまった。世界を感じられなくなった。
一時的なものだと願いたい。認めたくない。私はいよいよ神経を患っている
今朝は休みなので飼い犬と一緒に久々に散歩をしました。
春めいた陽の中で、青空の下歩くだけで、私は幸せだと思えます。もうこれ以上書くのは白々しい。私は殺したかった私を、殺せなかった私として生活することになります
白々しい。空が綺麗でも私は愚か者です。