絵が描けない。頭の中に生まれてこない。この頃。
何故かといえば、ある時、二年前のある時期、精神的負担が圧し掛かっていた。
それは自分一人では解決できなくて、しかも終わりのない(と思えた)家族関係の歪みだった。
抵抗しても反論しても、あの人たちは私と母と姉を押し潰した。心を殺されたのです。
もう二年も経ちますから、うまく語れないけれど言葉にしておきたくなった。
白状します。
取り繕えば繕うほど本当のところでありたい自分から遠ざかる気がするので、正直に、書いてみようとするのだけれど、長年染みついた虚勢を張る癖が抜けなくて見栄を切ってしまう自分に嫌気が差す。見栄はもうやめたい。(でもこれは自衛でもあって、自分はまだ大丈夫でどこででもやれる、やるようにすることができる、と自らの一線を保つ無意識の選択だったように思う)
正直にいえば、この2、3年、自分は神経を病んだ。
症状として自覚できるのはなにもないのになにもかもが悲しくて、四六時中涙が溢れ思考が停まること、精一杯の末の空笑いと自死思考、自傷一歩手前までいった。青暗い部屋で、刃を握る手の重みが空恐ろしかった。原因は元々の上手く生きていけなさと自死念慮が自分にとって凄まじい精神的負担となっていた家庭問題で噴出したことだった。もう分からせてやるには自分を傷つけて見せつけてやるしかないと思った。死ぬ必要はなかった。ただ、あなたたちは間違っている、と、私を認めてくれ、という思いだった。今思えばそんな人たちのために命を投げ出すなんて馬鹿々々しい、と思う。ただその時は問題に心を砕くことに必死だった。結局、私の心は本当に砕けてしまった。
その日から絵が生まれない。豊かだった感性は死に、元に戻らない。今も。
ところで私は版画を習う為に、というよりも自分を知るために絵の道を選んだ。絵画と違って直接人の役に立つ仕事を選んでいればそれなりに苦労もして幸せだったかもしれない。
今私は絵が描けない。学校に事情を説明して、一年の休学猶予を頂いた。その間はアルバイトだけが日々の刺激だった。病院にも行った。人様の前でしていい態度ではないものなのに我慢できなくて、目と顔を逸らし、体を揺らさないと心の均衡を保つことができなかった。医師には統合失調症を疑われたけれどもう分からない。診断を確定してほしくなくて、自分が精神を病んだ病人になってしまう事実が怖くて、そして感性が変わってしまうことを恐れて、そのようにお願いしてはっきりした診断書は頂かなかった。薬物治療は拒みたかったが、薬に頼らないとなるとカウンセリングでなんとかするしかないのが現状らしかった。精神科は投薬治療で体を治し、心療内科で心を治すという区分があるのだと知った。少しでも救われるなら、と嫌がっていた薬に望みを託した。もうじき二年ほどになるかしら、効果は良い方向へ表れているようで、一時の陰鬱とした心地はもう殆ど感じなくなった。酷い低血圧も今は治っている。ただまだ名残で自分をコロコロする(コロッ)思考はしてしまう。でも、それが絵を描く理由の源だったので、それが消えかけている今、もう一度今度は違う角度から絵と向き合わなくてはいけない。再発すると困る、けど描けないと単位が頂けない。困ったところにいます。
患者なんて名前、洒落になってない、と手ブロの名前も変えてしまった。あの時は本当に怖かった、自分が自分なのか分からなくなっていって。
日々辛くないと言えば嘘になるけれど、自分がここにいないという考え方は改まってきている気がする。ちゃんと、自分の力(信じることができないのですが)で物事を成していきたいという気持ちだけが上滑りしています。あと一年、絵を描きたくないのに描かないと親にも先生方にも申し訳がたちません。
文字にするまでだいぶ猶予が必要だったな。
書いてしまえばそんなこと、と。
自分の状態を自分で認められなかった。
それができなかった結果が今の自分だと思う。
結局自分の許せないところは他人を許せないことに通じて、手を伸べてくれた人を傷つけてしまったこともあった。何より母にたいへんな心配と心労をかけてしまったことを恥じたい。謝りたい。
今は以前よりも心を打ち明けるようになったし、思うこともままに伝えられる。これが社会に出て人と喋ることになると以前のようにうまく立ち回れない。それが歯がゆい。
絵を描けないのに描かなければいけない。絵ってそんなに苦しいものではないはずです。
私は芸術や絵画をを自己探求の道具の一つとして認識しています。苦しむときに寄り添う、自分の内面を写し出す鏡だと思います。医療と違って直接人を助けることはできないけれど、それでも人を救いたい。ひいては自分自身を、救ってやりたい思いがあります。
本音は、自分を救いたい。これに尽きます。
考えることをやめてしまった私は今からっぽです。
もう一度、生き直したいのです。私なりに。
以上でした。